第17章:自律神経が決める「疲労」の正体 — 奥多摩三山で前泊を検証する
「疲れた」は気のせいではなかった
「なんとなく調子が悪い」「いつもと同じペースなのにきつい」「特に痛い場所はないのにだるい」
山を歩いていると,こうした漠然とした違和感を覚えることがあります.筋肉痛なら場所がわかる.膝が痛いなら原因もわかる.しかしこの「なんとなく」は,正体がつかめません.
60回を超える山行データを分析した結果,この正体が見えてきました.
それは自律神経の「ブレーキ」が弱まった状態——つまり,体が回復しきっていないまま山に入っている,ということでした.
心臓はアクセルとブレーキで動いている
自律神経の話をする前に,心臓の動き方を整理します.
補足:自律神経の2つのペダル
車の運転を思い浮かべてください.心臓も車と同じで,2つのペダルで動いています.
- 交感神経=アクセル → 心拍を速くする(登りの急坂,仕事の締切前)
- 副交感神経=ブレーキ → 心拍を遅くする(睡眠中,山頂でのんびり休憩中)
この2つは常に同時に働いており,バランスを取り合っています.登りではアクセルが優位になって心拍が上がり,山頂で休憩するとブレーキが優位になって心拍が下がる.
問題は,ブレーキの「効き具合」が日によって違うことです.
ブレーキが強い日は,同じ登りでも心拍が上がりにくい.ブレーキが弱い日は,同じ登りでも心拍が高く出る.最大心拍数(天井)は変わらないので,ブレーキが弱い日は天井に近いところで歩き続けることになる——つまり,余裕がない状態です.
ブレーキの強さを数値化する——RMSSD
この「ブレーキの効き具合」を数値にしたのが,RMSSD(Root Mean Square of Successive Differences)です.
補足:RMSSDは「心拍のゆらぎ」を測る
心臓は完全に一定のリズムでは打っていません.息を吸うと少し速くなり,吐くと少し遅くなる.この微妙な「ゆらぎ」は,ブレーキ(副交感神経)が正常に効いている証拠です1.
RMSSDが高い=ゆらぎが大きい=ブレーキがよく効いている=体が回復モードにある RMSSDが低い=ゆらぎが小さい=ブレーキが弱っている=体がまだストレス状態にある
お風呂上がりにソファでくつろいでいるとき,心拍はゆったりと揺れています(ブレーキ優位).急にスマホが鳴って仕事の電話!心拍がドン!と上がる(アクセル全開).電話が終わってホッとする(ブレーキが戻る).この「切り替え」がスムーズにできる身体ほど,RMSSDは高い.
寝ている間のRMSSDを測ると,体が本当に回復しているかどうかが数字でわかります.Oura Ring,Amazfit,Apple Watch,Garmin——多くのウェアラブルデバイスが夜間のRMSSDを自動計測してくれます.
体内時計がブレーキの回復を制御している
ブレーキの回復は,夜の深い睡眠(徐波睡眠)の最中に起きます2.
補足:体内時計と「同調因子」
朝に目覚ましなしで目が覚めるのも,夜になると自然に眠くなるのも,体内時計(概日リズム)がアクセルとブレーキを切り替えているからです.この約24時間のリズムは,毎日の光・食事・活動のタイミング(「同調因子」と呼びます)を手がかりに調整されています3.
毎日だいたい同じ時間に起きて,同じ時間に食べて,同じ時間に寝る——こうした一定のリズムがあると,体内時計は安定して回り,夜になると自動的にブレーキが優位になり,深い睡眠中にRMSSDが回復します.
ところが生活リズムが乱れると,体内時計の同調がずれて,夜になってもアクセルからブレーキへの切り替えがうまくいかない.深い睡眠が減り,ブレーキが回復しきれないまま翌日を迎えることになります.
これはジェットラグ(時差ボケ)のミニ版です.たった2時間のずれでも,自律神経には影響が出ます.
60回の山行データが暴いた「見えない疲労」
Oura Ringで記録した59回分の夜間RMSSDデータを,山行中の心拍データと重ね合わせて分析しました.
発見①:RMSSDが低い日は心拍が高い
| 指標 | 値 |
|---|---|
| 相関係数 r | -0.347 |
| p値 | 0.005 |
| N | 59 |
夜間RMSSDが低い(ブレーキが弱い)日ほど,山行中の平均心拍が有意に高くなっていました.
具体的にはどれくらいの差か?
| ブレーキの状態 | 夜間RMSSD | 山行中平均HR | Zone 4への余裕 |
|---|---|---|---|
| 🧊 強い日(≥ 18ms) | 高い | 約103 bpm | たっぷり |
| 🔥 弱い日(< 18ms) | 低い | 約111 bpm(+8bpm) | 天井に近い |
たかが8bpmの差と思うかもしれません.しかし最大心拍数(天井)は変わらないので,使える余裕が狭くなります.急坂で心拍が跳ね上がったとき,余裕がある日は「キツいけど大丈夫」,余裕がない日は「限界に近い」になる.
発見②:疲労で登ると翌日も壊れる——「二重のペナルティ」
ここが最も重要な発見です.前日のReadinessを統制した上で分析したところ,山行中の心拍が1bpm上がるごとに,翌日のReadinessが0.28pt余分に低下することがわかりました(β=-0.280,p=0.005).
補足:「二重のペナルティ」の因果チェーン
ブレーキが弱い状態で山に入ると,次のことが連鎖的に起きます.
- 山行中の心拍が上がる(同じペースなのに+8bpm)
- 心拍が高いまま歩いた結果,翌日のダメージが余分に蓄積
- 翌日のReadinessがさらに下がる → 次の山行にも影響
注目すべきは,RMSSDは翌日の回復に「直接」影響するのではなく,心拍を介して「間接的に」影響していることです(直接効果はp=0.715で非有意).
つまり「疲れた状態で無理して登ると二重のペナルティを受ける」——踏んだり蹴ったりです.
発見③:ブレーキを弱めるのは「生活リズムの乱れ」
前夜のRMSSDを下げる要因を調べると,意外にも「山行の疲労」よりも「生活リズムの乱れ」の影響が大きいことがわかりました.
| 要因 | RMSSDへの影響 | エビデンス |
|---|---|---|
| 前夜の夜更かし(2時間以上) | 平均 -15% | メタ分析で確立4 |
| 前日のアルコール | 平均 -20% | 用量依存的低下5 |
| 睡眠時間5時間以下 | 平均 -25% | 深い睡眠の減少 |
| 連週の追い込み | 持続的低下 | オーバートレーニングの初期兆候 |
Round 12(奥多摩三山)での検証——前泊でブレーキを回復させる
ここまでの分析から生まれた仮説を,意図的にテストしたのがRound 12(奥多摩三山縦走,2026年5月17日)です.
問い: 前泊で睡眠を十分に確保し,RMSSDが高い状態で出発すれば,高負荷でも崩壊を防げるか?
⚠️ 検証スコープの明確化
第9章で,崩壊には2つの経路があることを発見しました.
- 経路A(心肺崩壊): Zone 4過多 → グリコーゲン枯渇 → HR↓+速度↓(R6/R7型)
- 経路B(脚崩壊): 累積下り過多 → エキセントリック損傷 → HR↑+速度↓(R9型)
R12で検証するのは経路Aの防止(睡眠→ブレーキ確保→心拍ドリフト抑制)のみです.
ルート: 御岳山(前泊)→ 大岳山 → 鋸山 → 愛宕山ピストン → 御前山 → 奥多摩湖 距離20.5km,累積登り2,172m,累積下り2,568m,行動時間11時間39分.
中間に急勾配の600m以上の登降を差し込む構成で,5-6時間で疲れ始めた時に心拍がどう反応するかを検証できるルート設計です.
前泊の効果——76%充電で出発する
御岳山の宿坊(憩山荘)に前泊しました.
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 睡眠時間 | 6時間55分 |
| 深い眠り | 1:41(24%)✅ |
| レム睡眠 | 1:38(24%)✅ |
| 覚醒 | 13回 ⚠️ |
| 睡眠時心拍 | 62 bpm |
| HRV | 28.4 ms(通常日37.4msの76%) |
補足:なぜ「フル充電」ではなかったのか
睡眠時間6時間55分は計画の7時間にほぼ到達し,深い眠り24%・レム24%とバランスは良好でした.しかし覚醒13回は多め.宿坊の環境変化(枕・布団・物音)が影響したと考えられます.
HRV 28.4msは通常日の76%——「フル充電」ではなく「76%充電」で出発したことになります.しかし,Oura時代に確立した「RMSSD≥18msならブレーキが効いた状態」という閾値は上回っています.
始発で向かう場合,起床は3:30頃になり睡眠時間は5時間を切ります.前泊と始発の差は約2時間の睡眠——この差がデータに出るか.
結果——Zone 4が35.7%でも崩壊しなかった
| 指標 | R7(外秩父)❌ | R12(奥多摩)✅ |
|---|---|---|
| 前泊睡眠 | 短い | 6時間55分 |
| HRV | 低い(推定) | 28.4 ms(76%充電) |
| Zone 4 | 20.0% | 35.7% |
| ドリフト率(CDI) | +30.9% | +1.3% |
| 崩壊(経路A) | 6.5hで崩壊 | なし(11.7h完走) |
Zone 4が35.7%——R7の20.0%の約1.8倍です.愛宕山ピストンの登り返し(Zone 4率69.8%)と鞘口山→御前山の急登(Zone 4率73.8%)の2つの長い登りが後半に集中し,全体の3分の1超が「会話できないレベル」の強度でした.
なのにドリフト率はわずか+1.3%.R7の+30.9%とは雲泥の差です.11.7時間を完走し,R6/R7で起きた経路A(心肺崩壊)のパターンは発生しませんでした.
翌日のV字回復——ブレーキの「貯金」が効いた
翌日(5/18)と翌々日(5/19)の回復データが,もう一つの重要な発見を示してくれました.
| 指標 | 通常日 | 前泊(5/16) | 翌日(5/18) | 翌々日(5/19) |
|---|---|---|---|---|
| HRV | 37.4 ms(100%) | 28.4 ms(76%) | 20.1 ms(54%) | 39.5 ms(106%) |
| RHR | 53 bpm | 62 bpm | 68 bpm(+6) | 56 bpm(+3) |
翌日に54%まで急落した後,翌々日に106%まで跳ね返る「V字回復」が出ています.
補足:V字回復の意味
Oura時代の60回のデータでは,このV字回復(翌夜のHRV > 当夜のHRV)は高負荷(cumulative gain ≥ 1,500m)の73%で出現していました.過去の平均では,RMSSDが低い状態で歩いた山行ほど回復に2-3日かかる傾向がありました.
今回は76%充電で出発し,1日で回復できています.「ブレーキを確保してから歩けば,ダメージが浅くなり回復も速い」——二重のペナルティの逆パターンが観測されたことになります.
「疲労」の再定義——あなたが思う疲労と,体が言う疲労
これらの分析を経て,本書での「疲労」を次のように定義します.
疲労=自律神経のブレーキ(副交感神経)が弱まった状態
筋肉痛は「局所の損傷」であり,数日で回復します.しかし自律神経の疲労は全身のシステムに影響し,心拍制御・体温調節・消化・睡眠の質——すべてに波及します.
そしてこの自律神経の疲労は,山行そのものよりも,山行前の生活リズムに大きく左右される.
| 疲労の原因 | 影響の大きさ | 対策 |
|---|---|---|
| 前夜の睡眠不足 | 大 | 前泊で6時間以上確保 |
| 就寝時刻のずれ | 大 | いつもと同じ時間に寝る |
| アルコール | 中〜大 | 山行2日前から控える |
| 連週の追い込み | 中 | 最低3日空ける(→第11章) |
| 筋肉痛(DOMS) | 小 | 2-3日で自然回復 |
答えは拍子抜けするほどシンプルです.「特別なことをする」必要はない.いつも通りの生活を,山行前日にも崩さないこと.これだけです.
| ❌ よくあるパターン | ✅ 理想 |
|---|---|
| 金曜22時まで荷物パッキング → 0時就寝 → 4時起床 | 木曜夜にパッキング完了 → 金曜22時就寝 → 5時起床 |
| 金曜夜に「明日頑張るぞ!」のビール | 水曜の飲み会を最後に,木金は控える |
| 前日夜にルート研究で興奮して眠れない | ルート計画は3日前までに完了 |
正直な留意点
R12の結果は心強いものでしたが,以下の限界を正直に記しておきます.
- デバイスが異なる — R7はOura Ring(指PPG),R12はAmazfit(手首PPG).Zone 4比率の直接比較には注意が必要です
- ルートが異なる — 外秩父七峰(37km)と奥多摩三山(20.5km)では距離・地形が異なります
- 累積トレーニング効果 — R7からR12までの間に5回のRoundを経ており,心肺フィットネスが向上している影響を排除できません
- N=1 — 私一人のデータです
「前泊がドリフトを抑えた」と断言はできません.言えるのは「76%充電で出発し,崩壊なし・ドリフト+1.3%という結果を得た」事実と,それがOuraの60回の傾向と整合するということです.
まとめ——体感は嘘をつく.数字は嘘をつかない.
朝起きたとき「まあまあ元気だな」と感じても,RMSSDが低ければ自律神経はまだ回復していない.その状態でロング縦走に出れば,心拍は上がりやすく,Zone 4に入りやすく,崩壊リスクが高まり,さらに翌日の回復も遅れる——二重のペナルティです.
逆に,前夜しっかり眠ってRMSSDが高ければ,Zone 4 = 35.7%の高負荷でも11.7時間持続でき,翌々日にはV字回復できる可能性がある.
「疲れているから山に行かない」のではなく,「疲れないように生活を整えてから山に行く」——これが60回のデータと奥多摩三山の検証から導き出された,私なりの答えです.
次の章では,この「ブレーキ」の概念をさらに推し進めます.ブレーキが壊れたとき,脳はどう反応するのか?——セントラルガバナーモデルと,それに対抗する「給水」という武器の話です.
<本章の参考文献>
- Task Force of ESC and NASPE. (1996). Heart rate variability: standards of measurement, physiological interpretation, and clinical use. Circulation, 93(5), 1043–1065.
- Trinder, J., et al. (2001). Autonomic activity during human sleep as a function of time and sleep stage. Journal of Sleep Research, 10(4), 253–264.
- Dibner, C., Schibler, U., & Albrecht, U. (2010). The mammalian circadian timing system. Annual Review of Physiology, 72, 517–549.
- Buchheit, M. (2014). Monitoring training status with HR measures. International Journal of Sports Physiology and Performance, 9(3), 469–477.
- Plews, D. J., et al. (2013). Training adaptation and heart rate variability in elite endurance athletes. International Journal of Sports Physiology and Performance, 8(6), 688–694.
- Hynynen, E., et al. (2006). Heart rate variability during night sleep and after awakening in overtrained athletes. Medicine & Science in Sports & Exercise, 38(2), 313–317.
📊 GPXデータの自動解析ツール CAIRN / 🔬 山岳スポーツ科学データベース Durability Monitor
-
Task Force of ESC and NASPE. (1996). Heart rate variability: standards of measurement, physiological interpretation, and clinical use. Circulation, 93(5), 1043–1065. ↩
-
Trinder, J., et al. (2001). Autonomic activity during human sleep as a function of time and sleep stage. Journal of Sleep Research, 10(4), 253–264. ↩
-
Dibner, C., Schibler, U., & Albrecht, U. (2010). The mammalian circadian timing system. Annual Review of Physiology, 72, 517–549. ↩
-
Buchheit, M. (2014). Monitoring training status with HR measures. International Journal of Sports Physiology and Performance, 9(3), 469–477. ↩
-
Irwin, M. R., et al. (2006). Effects of alcohol on autonomic nervous system during sleep. Alcoholism: Clinical and Experimental Research. ↩
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