脈拍と標高

第8章:ネガティブスプリット — 「前半を殺す」最適投資戦略


全ての教訓を,一つの戦略に凝縮する

Round 5〜7の3ラウンドで学んだことをまとめます.

これらの教訓を全て投入し,2026年4月19日,Round 8に臨みました.

舞台は高尾北陵・南陵縦走.距離~29km,累積登り~2,000m,累積下り~2,000m,行動時間12.0時間.

戦略名:ネガティブスプリット(Negative Split).

補足:ネガティブスプリットとは?

マラソンの世界で使われるペーシング戦略です.前半を意識的に遅く走り,後半にペースを上げる走り方.

「ネガティブ」は悪い意味ではなく,「前半と後半のタイム差がマイナス(後半の方が速い)」という意味です.

マラソンの世界記録の多くがネガティブスプリットで達成されています1.理由はシンプルで——前半を抑えることでグリコーゲンを温存し,後半に「投資回収」できるからです.

登山でこの戦略を使う人は,ほとんどいません.登山者の多くは「体力のある前半に稼いで,疲れた後半はゆっくり下る」と考えます.しかし第6-7章で見たように,このアプローチはZone 4を前半に集中させ,6.5時間の壁を招きます.

逆転の発想——「前半を殺す」(意識的に遅く歩く)ことで,後半に加速する——これがネガティブスプリットです.


事前計画——5フェーズのペース設計

Round 8では,初めて山行前に詳細なペース計画書を作りました.

フェーズ 区間 心拍ターゲット 戦略意図
P0 導入 高尾駅→城跡入口 < 110 bpm ウォーミングアップ
P1 核心 八王子城山→堂所山 120-130 bpm ⭐️HR 130死守.「遅すぎて退屈」= 正解
P2 奥高尾 堂所山→小仏峠 120-130 bpm 景信山で座って10分食べる
P3 NS区間 小仏城山→中沢山 125-135 bpm 前半で節約した「投資回収」開始
P4 フィニッシュ 東山→高尾山口 120-130 bpm 速度 > 3.0 km/hで合格

最も重要なのはP1のHR 130死守ルールです.

補足:なぜ「HR 130」が閾値なのか?

R5(飯能,Zone 4 = 7.8%)の平均心拍は127.2 bpm.10.5時間崩壊ゼロでした. R7(外秩父,Zone 4 = 20%)の前半平均心拍は143.8 bpm.6.5時間で崩壊しました.

127bpmと143bpmの間のどこかに閾値がある.安全マージンを取って130bpmを上限に設定しました.

私の場合,Zone 4は約154bpm以上です.130bpmに抑えておけば,Zone 4(154bpm+)までは24bpmの余裕がある.急登で一時的に心拍が跳ね上がっても,Zone 4に届く前にペースを落とせます.

具体的な運用は「HR 130を超えたら,立ち止まる」.それだけです.

計画書に書いた「気をつける点TOP 5」の1番は:

「前半(km2-12)HR 130以下を死守 → 根拠:R5はHR 127で10.5h持続 / R6-R7はHR 140超で6.5h崩壊」


結果——12時間崩壊ゼロ

結果を見てください.

フェーズ 距離 速度 平均HR Zone 4
P0 導入 6.7km 2.46 km/h 126.8 1.4%
P1 核心 4.5km 1.86 km/h 129.2 0.0%
P2 奥高尾 5.4km 2.84 km/h 128.4 0.0%
P3 NS区間 4.8km 2.81 km/h 133.5 1.0%
P4 フィニッシュ 12.9km 3.36 km/h 136.2 7.3%

Phase 1の速度はわずか1.86 km/h.R7のPhase 1(3.56 km/h)の半分以下です.

しかし——

Phase 4の速度は3.36 km/h.Phase 1の1.81倍に加速.

12時間経過した最終フェーズで,出発直後よりも速く歩いている.しかも加速しながら

xychart-beta
    title "R8 高尾北陵南陵 — ネガティブスプリットの速度推移"
    x-axis ["P0 (0-2.7h)", "P1 (2.7-5.1h)", "P2 (5.1-7.0h)", "P3 (7.0-8.7h)", "P4 (8.7-12.0h)"]
    y-axis "速度 (km/h)" 1.0 --> 4.0
    bar [2.46, 1.86, 2.84, 2.81, 3.36]

R7 vs R8の対比:

xychart-beta
    title "R7 vs R8 — フェーズ別速度の対比"
    x-axis ["Phase 1", "Phase 2", "Phase 3", "Phase 4"]
    y-axis "速度 (km/h)" 1.0 --> 4.0
    bar "R7 3段階崩壊" [3.56, 2.67, 3.27, 2.14]
    bar "R8 NS成功" [1.86, 2.84, 2.81, 3.36]

R7は3.56km/hのロケットスタートから3段階の崩壊を経て2.14km/hで終わった. R8は1.86km/hの忍耐スタートから右肩上がりで3.36km/hで終わった.

同じ体で,ペース配分を変えただけで,結果が完全に逆転した.


Zone 4 = 2.7% — 過去最低にして過去最良

全行程のZone分布を比較します.

Zone R5 飯能✅ R7 外秩父❌ R8 高尾✅
Zone 2 45.2% 22.1% 54.6%
Zone 3 19.6% 31.1% 36.9%
Zone 4 7.8% 20.0% 2.7%
ドリフト率 +5.0% +30.9% +5.1%

Zone 4がわずか2.7%——R5飯能の7.8%をも下回る過去最低値です.

Zone 2(有酸素域)に全体の54.6%が集中.これは「脂肪を燃料に,有酸素閾値のど真ん中で12時間歩き続けた」ことを意味します.有限のハイオク(糖質)をほぼ使わず,無限の軽油(脂肪)で巡航し続けた.

そしてドリフト率+5.1%は,R5飯能(10.5時間)の+5.0%とほぼ同じ.行動時間が1.5時間長くなっても心拍の安定性は同等.ネガティブスプリットの効果が数字として裏付けられました.


「偽り」ではない「真の」加速の証明

第7章で開発した「同一勾配帯での速度比較」で検証します.

勾配帯 Phase 1 → Phase 3 比率 Phase 1 → Phase 4 比率
緩斜面(0-10%) 2.8 → 4.3 1.54x 2.8 → 6.0 2.18x
中斜面(10-20%) 2.3 → 3.5 1.53x 2.3 → 4.1 1.79x
急斜面(20%+) 1.7 → 2.9 1.70x 1.7 → 2.5 1.48x

全ての勾配帯で,後半が前半を上回っている.

R7の「偽りの第二風」では,同一勾配帯で0.89x(前半より遅い)でした.R8では全勾配帯で1.48x以上.

補足:「真のネガティブスプリット」の見分け方

後半のほうが速い,という現象には2種類あります.

偽のNS(R7型): 地形が楽になっただけ.同一勾配帯で比べると後半が遅い(0.89x).心拍は低下(119.8bpm)——出力したくてもできない状態.

真のNS(R8型): 余力を意図的に投入.同一勾配帯で比べても後半が速い(1.54x).心拍はむしろ上昇(136.2bpm)——出力を意図的に上げている状態.

「心拍が上がりながら速度も上がる」のが真のネガティブスプリット. 「心拍が下がりながら速度が上がる」のは偽りの回復.

この判定基準は,登山だけでなくマラソンやトレイルランニングにも応用できます.


Zone 4と持続時間の統一法則

R5〜R8の4ラウンドから,Zone 4と持続時間の関係が明確になりました.

xychart-beta
    title "Zone 4比率 vs 持続時間 — 崩壊の閾値"
    x-axis ["R6 筑波", "R7 外秩父", "R5 飯能", "R8 高尾"]
    y-axis "持続時間 (h)" 0 --> 14
    bar [6.5, 6.5, 10.5, 12.0]
Round Zone 4 結果
R6 筑波 20.8% ❌ 6.5時間で崩壊
R7 外秩父 20.0% ❌ 6.5時間で崩壊
R5 飯能 7.8% ✅ 10.5時間持続
R8 高尾 2.7% 12.0時間崩壊ゼロ

Zone 4を1%下げるごとに,持続時間が約30分延びる計算です.


ネガティブスプリットは「遅く歩く技術」ではない

よくある誤解を正しておきたいと思います.

ネガティブスプリットは「ゆっくり歩きましょう」という精神論ではありません.

前半の代償とリターンを数字で見てください.

項目 前半の代償 後半のリターン
Phase 1速度 1.86 km/h(R7比-48%) Phase 4速度 3.36 km/h(R7比+57%)
Phase 1所要 +0.5h程度の延長 12.0hでも崩壊ゼロ
Phase 1 Zone 4 0.0% 全行程Zone 4: 2.7%

前半で48%遅くなるコストを払い,後半で57%速くなるリターンを得た.

ネガティブスプリットは「エネルギーの最適分配戦略」です.

限られたグリコーゲンをいつ・どれだけ使うかを計画的に管理する.前半は意識的にグリコーゲンを温存し(Zone 4 = 0%),後半に「貯金」を切り崩して加速する.

投資にたとえれば,「前半に元本を使い切る(R7)」vs「前半は利息だけで回し,後半に元本を投入する(R8)」の違いです.


「遅すぎて退屈 = 正解」

この章を,計画書に書いた一文で締めくくります.

北陵の核心部(km4-8の急登急降)を歩いているとき,他の登山者に何人も追い抜かれました.HR 130を超えるたびに立ち止まるので,亀のような速度です.正直「遅すぎて恥ずかしい」と感じる瞬間もありました.

しかし10時間後,Phase 4で3.36km/hを出しているとき——彼らの多くはもうとっくに下山しているか,あるいはどこかで崩壊していたかもしれない.

計画書にはこう書いてありました.

「前半の体感:遅すぎて退屈 = 正解.」 「Phase 4の体感:最後まで歩けた = 快挙.」

その通りでした.


<本章の参考文献>

  1. Abbiss, C. R., & Laursen, P. B. (2008). Describing and understanding pacing strategies during athletic competition. Sports Medicine, 38(3), 239–252.
  2. Romijn, J. A., et al. (1993). Regulation of endogenous fat and carbohydrate metabolism. American Journal of Physiology, 265(3), E380–E391.
  3. Rauch, H. G. L., et al. (2005). A signalling role for muscle glycogen in the regulation of pace. British Journal of Sports Medicine, 39(1), 34–38.
  4. Coyle, E. F., & González-Alonso, J. (2001). Cardiovascular drift during prolonged exercise. Exercise and Sport Sciences Reviews, 29(2), 88–92.
  5. Proske, U., & Morgan, D. L. (2001). Muscle damage from eccentric exercise. The Journal of Physiology, 537(Pt 2), 333–345.

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  1. Abbiss, C. R., & Laursen, P. B. (2008). Describing and understanding pacing strategies during athletic competition. Sports Medicine, 38(3), 239–252. 

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