脈拍と標高

第1章:最初の一歩 — 明神ヶ岳と「壊して修復する」サイクル


箱根の外輪山で,ベースラインを測る

2026年2月28日,私は箱根の明神ヶ岳に立っていました.

標高1,169m.箱根外輪山の一角で,仙石原を見下ろす展望の良い山です.この日の山行は14.3km,累積標高差1,464m,行動時間7時間24分.登山としてはごく普通の日帰りハイクですが,私にとっては記念すべき「Round 1」——身体実験の第1回でした.

左手の薬指には,Oura Ringという指輪型のセンサーが光っています.これが24時間,心拍数・心拍変動・体温・睡眠の質を記録してくれます.

この日,知りたかったのは一つだけ.

「今の自分の体は,山に対してどれくらいの効率で動いているのか?」


EF(心臓効率)という物差し

「効率」を測るために使ったのが,EF(Efficiency Factor / 効率因子)という指標です.

補足:EFとは?

EFは「心臓が1回打つたびに,どれだけの標高を稼げるか」を示す数字です.

計算は単純.

EF = VAM ÷ 平均心拍数

VAM(Velocity Ascended per Meter)は「1時間あたり何メートル登ったか」.たとえばVAMが200m/hなら,1時間で200m分の標高を稼いだことになります.

これを平均心拍数で割ると,心臓が1回打つごとに体を何ミリメートル持ち上げたかがわかります.

EFが高いほど「燃費の良い登山」をしていることになります.同じ心拍数でもたくさん登れる——つまりエンジンの効率が良いということです.

明神ヶ岳での結果はこうでした.

指標 Round 1(明神ヶ岳)
VAM(登高速度) 197 m/h
平均心拍数 133.6 bpm
最大心拍数 157 bpm
EF(効率因子) 1.47
1拍あたり登高量 24.6 mm/beat

心臓が1回鳴るごとに,体を24.6mm(約2.5cm)持ち上げている.

これが「ベースライン」——今の自分の出発点でした.


翌朝,体温が0.38°C上がった

山行が終わり,仙石原の温泉にゆっくり浸かって宿に戻りました.Oura Ringが翌朝に表示した数字を見て,最初の発見がありました.

体温偏差が+0.38°C.

普段の体温から0.38度高い.これは風邪ではありません.

補足:なぜ山行翌日に体温が上がるのか?

下り坂を歩くとき,太ももの前側の筋肉(大腿四頭筋)は「引き伸ばされながら力を発揮する」という独特の動きをしています.これをエキセントリック収縮(伸張性収縮)と呼びます.

普通の筋肉の使い方(ぐっと縮める動き)と違い,エキセントリック収縮は筋線維に微細な損傷を与えます.壁を想像してください.壁を押すのは平気でも,壁が向かってくるのを止めるのは筋肉に大きなストレスがかかりますよね.

この筋損傷に対して,体は修復のために炎症反応を起こします.炎症が起きると体温が上がる——つまり,体温偏差+0.38°Cは「下りで筋肉が壊れて,体が修復作業をしている証拠」なのです1

翌日や翌々日に太ももが痛くなるのが,いわゆるDOMS(遅発性筋肉痛).体温の上昇は,このDOMSの裏側で起きている炎症反応を数字で捉えたものです.

さらにOura Ringが記録した睡眠中の心拍推移を見ると,面白いパターンが浮かび上がりました.

xychart-beta
    title "R1 翌夜の睡眠中心拍(10分割)"
    x-axis ["入眠", "10%", "20%", "30%", "40%", "50%", "60%", "70%", "80%", "起床"]
    y-axis "HR (bpm)" 65 --> 90
    line [84, 77, 69, 73, 72, 71, 72, 71, 69, 71]

底打ち69bpmは入眠からわずか20%の位置で到達(温泉効果による副交感神経の前倒し起動)

入眠してすぐに心拍が急降下し,69bpmで底打ち.その後は70前後で横ばい.これは温泉効果でした(後述の第2章で,温泉なしとの比較でこれが確認されます).

翌日のOura Readiness Scoreは62.前夜の49からさらに13ポイント低下.体は確実にダメージを受けていました.


1週間後,同じ体が別のエンジンになっていた

Round 1の1週間後,Round 2として丹沢の塔ノ岳に向かいました.

塔ノ岳の大倉尾根(通称「バカ尾根」)は,ほぼ一直線に標高を稼ぐ急登の代表格.箱根の明神ヶ岳が「外輪山の縁をじわじわ歩く」タイプだったのに対し,こちらは「ひたすら階段を登り続ける」タイプです.

結果を並べてみます.

指標 R1(明神ヶ岳) R2(塔ノ岳) 変化
VAM 197 m/h 222 m/h +13%
平均心拍数 133.6 bpm 130.4 bpm -2.4%
EF 1.47 1.70 +16%
1拍あたり登高量 24.6 mm 28.4 mm +15%

たった1週間で,EFが16%向上しています.

登る速度は上がった(197→222 m/h)のに,心拍数はむしろ下がった(133.6→130.4 bpm).同じ心拍で,より多くの標高を稼げるようになった——エンジンの効率が上がったのです.

補足:1週間で心臓が強くなるのか?

実は,心臓そのものが1週間で大きく変わることはありません.心臓の壁が厚くなったり,1回に送り出す血液の量(1回拍出量)が増えたりする「心臓のリモデリング」には,通常4〜8週間かかります2

では何が変わったのか?答えは「末梢の適応」です.

筋肉の中には,酸素を使ってエネルギーを作る小さな工場「ミトコンドリア」があります.持久的な運動を繰り返すと,このミトコンドリアの数と密度が増える.さらに,筋肉に酸素を届ける毛細血管も発達する.

これらの変化は2〜3週間で有意に起こることが報告されています2.つまり,「心臓が強くなった」のではなく,「筋肉が酸素を上手に使えるようになった」と考えるのが妥当です.


「壊れなくなった」筋肉——RBE(反復防御効果)

Round 3では,さらにスケールアップして奥多摩の雲取山に向かいました.22km,累積標高差2,033m,行動時間8時間36分.これまでで最大の山行です.

ここで驚くべきデータが出ました.

指標 R1(明神ヶ岳) R2(塔ノ岳) R3(雲取山)
下り累積標高差 1,107 m 1,414 m 2,024 m
翌日の体温偏差 +0.38°C +0.39°C +0.04°C

下りの量は,Round 1の1,107mからRound 3の2,024mへと,83%も増えています.

なのに,翌日の体温偏差はわずか+0.04°C.ほぼゼロです.

体温偏差は筋損傷による炎症反応の指標です.下りが83%増えたのに,炎症がほぼゼロ.これはどういうことでしょうか?

補足:RBE(反復防御効果)とは?

RBE(Repeated Bout Effect)とは,「同じ運動を繰り返すと,筋損傷に対する防御が獲得される」という現象です.

最初の山行で下り坂を歩くと,筋線維のZ帯(筋肉の骨格にあたる構造)が壊れ,炎症が起きます(→ 体温上昇,DOMS).しかし,その修復過程で体は3つの適応を行います.

  1. 筋膜のコラーゲン架橋の強化 — 物理的に壊れにくくなる
  2. サルコメア(筋肉の最小単位)の直列数の増加 — より広い範囲の動きに対応できるようになる
  3. 炎症性サイトカインの応答の鈍化 — 免疫系が「もう大丈夫」と学習する

一言でいえば,「壊して,修復して,壊れなくなる」.これが反復防御効果です3

私の場合,2週間で3回の山行(下り1,107m → 1,414m → 2,024m)を経て,この防御が完成しました.体温偏差の低減率は90%.壊れることを恐れる必要はなく,むしろ適度に壊すことが強くなるための条件なのです.


エンジンの進化——EF +26%の2週間

3回のRoundを通じたEFの推移を見てみましょう.

指標 R1(明神) R2(塔ノ岳) R3(雲取) 変化
EF 1.47 1.70 1.85 +26%
1拍あたり登高量 24.6 mm 28.4 mm 31.0 mm +26%
翌日HRV 9 ms 11 ms 16 ms +78%
RHR底打ち 69 bpm 66 bpm 63 bpm -9%

2週間で,心臓1拍あたりの登高量が24.6mmから31.0mmへ.26%の効率向上です.

そして,翌日のHRV(心拍変動)が9msから16msへと78%も上昇しています.

補足:HRV(心拍変動)とは?

心臓は機械時計のように正確には打っていません.1拍ごとに微妙に間隔がずれています.たとえば「0.85秒 → 0.92秒 → 0.88秒 → 0.91秒」のように.

この「ゆらぎ」が大きいほど,自律神経(特に副交感神経=ブレーキ役)が元気に働いている証拠です.逆にゆらぎが小さくなると,体がストレスを受けている状態です.

RMSSD(Root Mean Square of Successive Differences)は,このゆらぎの大きさを数値化したもの.山行翌日のRMSSDが高いということは,「体がしっかり回復モードに入れている」ことを意味します.

Round 3で注目すべきは,過去最大の負荷をかけたのに,翌日のHRVが過去最高だったことです.

普通に考えれば,負荷が大きければ回復は遅くなるはず.でも実際には逆でした.これがVagal Rebound(迷走神経リバウンド)——自律神経の回復力そのものがトレーニングで向上する現象です.

「壊されることに慣れた体」は,壊れた後に元に戻る速度も速くなる.


Round 1〜3が教えてくれたこと

最初の3ラウンドで見えたのは,3つの適応サイクルでした.

1. 筋肉の適応(RBE)——「壊れなくなった」

下りの累積標高差が83%増えても体温偏差は90%低減.2週間で筋損傷に対する防御が完成した.

2. 心肺の適応(EF向上)——「効率が上がった」

心臓1拍あたりの登高量が26%向上.心臓が強くなったのではなく,筋肉が酸素を上手に使えるようになった.

3. 自律神経の適応(Vagal Rebound)——「回復が速くなった」

過去最大の負荷でも翌日HRVが過去最高.自律神経の「復元力」そのものが鍛えられた.

この3つのサイクルが,たった2週間の間に同時に回っていた.人体の適応能力の凄さを,データが静かに教えてくれました.

しかし,ここまではすべて「エンジン(心肺)」の話です.

次の章では,同じTRIMP(心肺にかかった総負荷)でもルートの性格が違うと体への効き方がまるで変わる——という発見について掘り下げます.そして,温泉が回復に効くのか効かないのか,面白い「対照実験」の結果をお見せします.


<本章の参考文献>

  1. Proske, U., & Morgan, D. L. (2001). Muscle damage from eccentric exercise. The Journal of Physiology, 537(Pt 2), 333–345.
  2. Holloszy, J. O., & Coyle, E. F. (1984). Adaptations of skeletal muscle to endurance exercise. Journal of Applied Physiology, 56(4), 831–838.
  3. McHugh, M. P. (2003). Recent advances in the understanding of the repeated bout effect. Scandinavian Journal of Medicine & Science in Sports, 13(2), 88–97.
  4. Stanley, J., Peake, J. M., & Buchheit, M. (2013). Cardiac parasympathetic reactivation following exercise. Sports Medicine, 43(12), 1259–1277.
  5. Coggan, A. R., & Allen, H. (2010). Training and Racing with a Power Meter (2nd ed.). VeloPress.

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  1. Proske, U., & Morgan, D. L. (2001). Muscle damage from eccentric exercise. The Journal of Physiology, 537(Pt 2), 333–345. 

  2. Holloszy, J. O., & Coyle, E. F. (1984). Adaptations of skeletal muscle to endurance exercise. Journal of Applied Physiology, 56(4), 831–838. 

  3. McHugh, M. P. (2003). Recent advances in the understanding of the repeated bout effect. Scandinavian Journal of Medicine & Science in Sports, 13(2), 88–97. 

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