脈拍と標高

序章:なぜ山で「実験」するのか


体脂肪率27%の男が,リュックに石を入れて歩き始めた日

2025年の秋,私は体重87kg,体脂肪率27%でした.

会社の健康診断で「メタボリックシンドローム予備群」の判定を受け,内臓脂肪レベルは11.体年齢は実年齢より18歳も上の55歳相当.数字を突きつけられて,さすがにまずいと思いました.

でも,走るのは嫌でした.膝が悪いわけではないのですが,ランニングという行為そのものが性に合わない.何か別の方法はないか——そう考えていた時に出会ったのが「ラッキング」です.

ラッキング(Rucking)= 重りを背負って歩くこと.

もともとは軍隊のトレーニングが起源で,リュックサックに重りを入れて歩くだけ.ランニングほど膝への衝撃がなく,でも普通のウォーキングより消費カロリーが高い.

やったことはシンプルです.

これを3ヶ月続けました.

結果は——

項目 Before After 変化
体重 87 kg 72 kg −15 kg
体脂肪率 27% 12% −15%
骨格筋率 34% 40% +6%
体年齢 55歳相当 37歳相当 −18歳

「走らなくても,歩くだけで体は変わる」——これが,私の身体実験の原点です.

補足:なぜ「歩くだけ」で体脂肪が落ちるのか?

人間の体には,糖質を燃やす回路(解糖系)と,脂肪を燃やす回路(脂肪酸β酸化)の2つがあります.激しい運動では糖質が優先的に使われますが,「ちょっときついけど会話できる」くらいの強度(専門用語では「Zone 2」と呼びます)で長時間歩くと,脂肪を燃やす回路が優先的に動きます.

ラッキングの強度はちょうどこのZone 2に入ります.重りを背負うことで,ただ歩くよりも心拍数が上がり,かつ筋肉にも負荷がかかる.結果として「脂肪を落としつつ,筋肉は維持する」という理想的な体組成の変化が起きたわけです1


15kgが消えたら,山が見えた

体重が15kg減って最初に気づいたのは,「階段が楽になった」ことでした.

考えてみれば当たり前です.以前は常に15kgのザックを余分に背負って生活していたのと同じ状態だったのですから.

そして自然と目が向いたのが山でした.毎日10km歩く体力はある.脂肪は落ちて筋肉は増えた.北横岳に登ってみたら,トレーニング前に3時間22分かかったコースが2時間11分で歩けた.約1時間10分の短縮.

「もっと長く歩けるのではないか?もっと高い山に行けるのではないか?」

こうして,週末の山歩きが始まりました.


歩けば歩くほど,疑問が湧いてくる

山を歩くようになると,不思議なことが次々と起こります.

登山ガイドブックには「コースタイム」と「難易度」は書いてあります.でも,「なぜ同じコースタイムなのに,あなたの体感が毎回違うのか」は書いてありません.

その答えは,自分の体の中にあるはずでした.


腕時計が,体の内側を見せてくれた

幸運なことに,現代にはウェアラブルデバイスという道具があります.

私が使っているのは,最初はOura Ring(指輪型の生体センサー),途中からFitbit Inspire 2,そして現在はAmazfit T-Rex 3です.これらのデバイスは,次のことを24時間記録してくれます.

そしてもう一つ,登山者なら誰でも持っている道具があります.GPSログ(GPXファイル)です.

YAMAPやヤマレコで記録される軌跡データには,緯度・経度・標高・時刻が1秒〜数秒おきに刻まれています.ここから計算できるのは——

つまり,腕時計が「体の内側」を,GPSが「体の外側の動き」を,同時に記録してくれる.この2つを重ね合わせると,「なぜ今日はきつかったのか」「なぜ今回は楽だったのか」が,数字として見えてくるのです.


この本は「登山日記」ではありません

この本に書かれているのは,2026年2月から始めた「山での身体実験」の記録です.

箱根の明神ヶ岳(Round 1)から始まり,丹沢の塔ノ岳(Round 2),奥多摩の雲取山(Round 3),陣馬〜高尾の縦走(Round 4),飯能アルプス(Round 5)……と,毎週のように山に入り,体のデータを取り続けました.

普通の山行記録との違いは,毎回の山行に「問い」を設定していることです.

Round 問い
R1-R3 明神ヶ岳→塔ノ岳→雲取山 2週間で心臓の効率は変わるか?
R4 陣馬〜高尾 歩き方を変えると燃費は上がるか?
R5 飯能アルプス 不整地は身体に何をしているか?
R6 筑波連山 泥のぬかるみは筋肉を壊すのか?
R7 外秩父七峰 37km歩くと,どこで・なぜ体が壊れるか?
R8 高尾北陵南陵 前半ゆっくり歩けば,12時間持つか?
R9 箱根外輪山 心肺が完璧でも,膝は壊れるのか?
R11-12 奥多摩三山 前夜よく眠れば,疲労は防げるか?

毎回の「問い」に対して,GPXとウェアラブルのデータで「答え」を出す.その答えを次の山行にフィードバックして,また新しい「問い」を立てる.

この繰り返しが,12ラウンド・60回超の山行を経て,一つの体系になりました.


本書の構成——自動車のたとえで読む

本書は4部構成です.わかりやすいように,人間の体を自動車にたとえて説明します.

第Ⅰ部「エンジン」(第1〜4章) は,心臓と肺の話です.

心臓は1回ドクンと打つたびに血液を送り出し,筋肉に酸素を届けます.エンジンの排気量が大きいほど力が出るように,心臓のポンプ効率が高いほど同じ心拍数でたくさんの標高を稼げます.Round 1〜4で,この「エンジンの効率」が2週間で26%向上し,さらに歩き方を変えることで追加4.9%改善した過程を追います.

第Ⅱ部「シャシー」(第5〜9章) は,足腰と関節の話です.

エンジンがどんなに強くても,サスペンション(膝)が壊れたら走れません.タイヤ(足裏)のグリップが失われたら止まれません.Round 5〜9で発見した「地形が身体を壊すメカニズム」と,12時間歩いても壊れない「ネガティブスプリット」というペース配分戦略を解説します.

第Ⅲ部「燃料と整備」(第10〜13章) は,食事・睡眠・回復の話です.

ガソリンの質が悪ければエンジンは調子を崩し,整備を怠ればあちこちにガタが来ます.「疲労」の正体は何か,山行後に体が回復するまで何日かかるか,何を食べれば翌朝の回復が違うか——ウェアラブルの夜間データと栄養学の知見を組み合わせて検証します.

第Ⅳ部「統合と実践」(第14〜16章) は,これまでの知見を実際の登山計画に落とし込む話です.

近所の散歩から北アルプスまでを6段階に分類した「ティア構造」,自作の岩石分類AI「PETROS」の開発と実践,そしてGWの伊豆3日間縦走で経験した「天気×宿×バスの輸送最適化問題」まで,データを持って山に行くことの楽しさを伝えます.


この本の読み方

本書は最初から順番に読む必要はありません

「ペース配分が知りたい」方は第8章から.「膝が痛い」方は第9章から.「そもそもなぜ疲れるのか知りたい」方は第10章から読み始めてください.

ただし,一つだけお願いがあります.

各章に散りばめられた「補足」の欄は,ぜひ読んでください.

補足:〇〇とは?

という形式で,専門的な概念を「なぜそうなるのか」から噛み砕いて説明しています.心拍変動(HRV),エキセントリック収縮,Zone 2,グリコーゲン枯渇——これらは一見難しそうですが,理屈がわかると「あ,あのときのアレはこういうことだったのか」と膝を打つはずです.

登山の知識と身体の知識は,分けて考えるものではありません.自分の体を知ることは,山を安全に楽しむための最も確実な投資です.


N=1の約束——この本の限界について

最後に,大事なことを述べさせてください.

この本に書かれているのは,私一人(N=1)の体験記録です.

私のデータから見えた傾向が,あなたにそのまま当てはまるとは限りません.年齢,性別,体力レベル,基礎疾患の有無——これらが違えば,同じ山を歩いても体の反応は異なります.

本書で使っている運動生理学の用語や因果メカニズムの議論は,学術文献に基づく仮説的な解釈であり,以下の限界があります.

それでも本書を書くのは,「自分のデータを見る」という行為そのものに価値があると信じているからです.

完璧なデータでなくても,先週と今週を比べれば変化は見える.変化が見えれば仮説が立つ.仮説が立てば次の山行が「実験」になる.実験の結果がまたデータになる——このサイクルを回し続けることで,あなた自身の「山行の科学」が育っていきます.

さあ,腕時計を充電して,GPSをオンにして,山に行きましょう.

あなたの体が,答えを教えてくれます.


💡 登山を科学するツールとデータベースのご案内

本シリーズ(本書)で紹介している「データに基づく壊れない身体作り」を実践・深掘りするための2つのサイトを公開しています.


  1. Achten, J., & Jeukendrup, A. E. (2003). Optimizing fat oxidation through exercise and diet. Sports Medicine, 33(3), 129-147. 

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