脈拍と標高

第6章:オーバーペースの科学 — 筑波連山と「6.5時間の壁」


泥が,計算を狂わせた

2026年4月5日,Round 6.筑波連山縦走.

距離29.5km,累積登り2,424m,累積下り2,264m,行動時間9.5時間.数字だけ見ればRound 5(飯能アルプス28.3km)とほぼ同等です.

しかし,この日は前日の雨でトレイルが泥だらけでした.

「泥」——たったこれだけの環境変数が,Round 5で確立したはずの黄金律を木っ端微塵に砕きました.

結果を先に見てください.

指標 R5(飯能)✅ R6(筑波)❌
平均HR 127.2 bpm 140.0 bpm +10%
Zone 4 7.8% 20.8% +167%!
ドリフト率 +5.0% +28.6% +472%!
崩壊 なし(10.5h) あり(6.5h)

Zone 4が7.8%→20.8%に爆増.ドリフト率が5.0%→28.6%に暴騰.そして6.5時間の壁——ペースが維持できなくなり,後半は這うように歩くことになりました.

何が起きたのか?


泥濘の代謝コスト——「見えない+13.8%」

泥のぬかるみを歩いたことがある方ならわかるでしょう.足を踏み出すたびにズルッと滑る.靴がめり込む.引き抜くのにも力がいる.

この「泥の追加コスト」を,データが定量化してくれました.

補足:なぜ泥道では心拍が上がるのか?

乾いた硬い地面を歩くとき,人間の足は「振り子」のように効率よくエネルギーを交換しています(第5章で紹介した倒立振子モデル).

しかし泥の上では,3つの追加コストが発生します.

  1. 滑り止めコスト — 足が滑らないよう,着地のたびに余分な筋力で地面を掴む必要がある
  2. 引き抜きコスト — めり込んだ足を引き抜くのに,太ももの前の筋肉(大腿四頭筋)を余分に使う
  3. バランス修正コスト — 不安定な足場でバランスを崩すたびに,体幹と脚の筋肉で立て直す

研究によると,不整地歩行はエネルギーコストを10〜30%増加させます1.泥濘はさらにそれ以上の負荷を加える可能性があります.

この追加コストは「見えない」のが厄介です.歩いている本人の体感では「ちょっと歩きにくいな」程度ですが,心拍数は正直に反応する.同じ体感強度なのに,心拍が+10%高い——つまり体感と実態のズレが泥濘で生じるのです.

Round 5とRound 6は,距離・累積標高差がほぼ同じで,歩行速度も似ている.違いは路面状態だけです.

にもかかわらず,平均心拍が127.2→140.0 bpmと13bpmも高い.この差を代謝コストに換算すると——

同じ速度で歩いても,泥の上では心臓が13.8%余分に働いている.

この「見えない+13.8%」が,Zone 4を7.8%→20.8%へと引き上げ,有限の糖質(グリコーゲン)を加速度的に消耗させたのです.


林道の「偽りの回復」

筑波連山のルートには,途中にいくつかの林道区間(舗装された平坦な道)があります.

この林道区間で,一瞬だけ体が楽になりました.EF(心臓効率)が跳ね上がり,「お,回復してきたぞ」と感じた.

しかし,これはでした.

区間 路面 EF 体感
泥濘トレイル(km10-14) 1.12 きつい
林道区間(km14-16) 舗装 1.53(+37%!) 「回復した!」
泥濘トレイル再突入(km16-18) 0.86(-44%!) 崩壊

林道で楽になったのは,路面が良くなったからEFが回復した——のではなく,単に路面がフラットで泥の追加コストがゼロになっただけでした.体の回復力が戻ったわけではありません.

林道区間で「回復した」と錯覚してペースを維持したまま,再び泥濘トレイルに突入した瞬間,体は一気に崩壊しました.EFが1.53→0.86と44%も急落.

補足:「偽りの回復」の正体

後のRound 7(外秩父七峰)でも,同じパターンが繰り返されます(第7章で詳しく解説).

行動時間6.5hを過ぎた頃に一度ペースが持ち直す区間がある.「おっ,回復してきた」と感じる.でもそれは地形が楽になっただけ(勾配σが低い区間に入っただけ)で,体が回復したわけではない.

この区間で「まだ行ける」と判断してペースを維持すると,次に地形が厳しくなった瞬間に,溜まっていた疲労が一気に表面化する.

「偽りの回復」を見分ける方法はシンプルです.同一勾配帯での速度を前半と比較すること. 林道で速度が上がっても,トレイルに戻って前半と同じ勾配帯で速度が維持できていなければ,それは回復ではなく「地形のボーナス」です.


6.5時間の壁——なぜそこで壊れるのか

Round 6では,行動開始から6.5時間でペースが急激に低下しました.

時間帯 速度(km/h) HR(bpm) 状態
0-3h 3.4 138 正常
3-6h 2.9 142 やや低下
6-7h 2.1 145 崩壊開始
7-9.5h 2.4 137 低強度で這う

6.5時間を境に,速度が2.9→2.1 km/hに急落.心拍はむしろ上がっている(142→145 bpm).「心臓は頑張っているのに,体が進まない」——これが代謝崩壊のサインです.

補足:6.5時間の壁の生理学

6.5時間という数字には,生理学的な裏付けがあります.

Zone 4(高強度域)で運動すると,主燃料は筋グリコーゲン(筋肉に貯蔵された糖質)です.体内のグリコーゲン総量は約2,000kcal(500g).

Zone 4の代謝率を約700kcal/hと推定すると2

  • Zone 4比率20% × 700kcal/h × 6.5h = 910kcal
  • 残りZone 2-3でも糖質を一部消費 → 合計で1,400〜1,600kcalを消費

これはグリコーゲン総量の70〜80%に相当します.残り20〜30%まで枯渇すると,体は「グリコーゲン節約モード」に入り,出力を制限します.

マラソンで言う「30kmの壁」(約2時間半のZone 4相当)と同じメカニズムです.登山ではZone 4の比率が低い代わりに行動時間が長いため,同じグリコーゲン枯渇が6〜7時間で起きるのです.


環境変数の分離——「泥が悪いのか,自分が悪いのか」

Round 6の結果だけでは,「崩壊の原因は泥なのか,それとも自分のペース管理のミスなのか」を切り分けることができません.

科学的に言えば,変数が2つ同時に変わった(①路面が泥 ②それに伴いZone 4が上昇)ので,どちらが原因かわからない.

この曖昧さを解消するために,Round 7(外秩父七峰)が必要になります.Round 7は路面が乾燥しているのにZone 4 = 20%——つまり「泥なしでオーバーペース」の条件です.

Round 路面 Zone 4 崩壊 分離される変数
R5 飯能 乾燥 7.8% なし
R6 筑波 泥濘 20.8% 6.5h 泥+オーバーペース
R7 外秩父 乾燥 20.0% 6.5h オーバーペースのみ

R6とR7の比較で「路面は違うのに,Zone 4が同じ20%で同じ6.5hで崩壊した」と確認できれば,崩壊の原因は「泥」ではなく「Zone 4の高さ」だと結論できます.

そしてその通りの結果が出ました——次章へ続きます.


<本章の参考文献>

  1. Voloshina, A. S., et al. (2013). Biomechanics and energetics of walking on uneven terrain. Journal of Experimental Biology, 216(21), 3963–3970.
  2. Romijn, J. A., et al. (1993). Regulation of endogenous fat and carbohydrate metabolism. American Journal of Physiology, 265(3), E380–E391.
  3. Coyle, E. F., & González-Alonso, J. (2001). Cardiovascular drift during prolonged exercise. Exercise and Sport Sciences Reviews, 29(2), 88–92.
  4. Rauch, H. G. L., et al. (2005). A signalling role for muscle glycogen in the regulation of pace. British Journal of Sports Medicine, 39(1), 34–38.

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  1. Voloshina, A. S., et al. (2013). Biomechanics and energetics of walking on uneven terrain. Journal of Experimental Biology, 216(21), 3963–3970. 

  2. Romijn, J. A., et al. (1993). Regulation of endogenous fat and carbohydrate metabolism. American Journal of Physiology, 265(3), E380–E391. 

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