脈拍と標高

第10章:「疲労」の正体 — RMSSDと生活リズム


「疲労」とは何か?

登山から帰ってきた翌日,「疲れた」と感じる.これは当たり前です.

しかし,ここで言う「疲労」には,実は2つのまったく異なる意味が含まれています.

  1. 筋肉の疲労 — 大腿四頭筋が痛い,足が張っている,階段を降りるのがつらい
  2. 自律神経の疲労 — なんとなくだるい,やる気が出ない,心拍がいつもより高い

1の筋肉の疲労は比較的わかりやすい.痛い場所がある.動かすと痛い.

問題は2の方です.自律神経の疲労は,本人が自覚しにくい. 「なんとなく調子が悪い」「いつもと同じように歩いているのにきつい」——そういう漠然とした違和感として現れます.

そして,この「自律神経の疲労」こそが,山行中のパフォーマンスを最も大きく左右する要因であることが,60回を超える山行データから見えてきました.


RMSSDが測る「ブレーキの効き具合」

自律神経の疲労を数値化する方法があります.RMSSD(Root Mean Square of Successive Differences)です.

補足:RMSSDを「車のブレーキ」で理解する

自律神経には「アクセル(交感神経)」と「ブレーキ(副交感神経)」があります.

運動中はアクセルが踏まれて心拍が上がる.運動を止めるとブレーキがかかって心拍が下がる.

RMSSDは,このブレーキの「効き具合」を測る指標です.具体的には,心拍の「ゆらぎ」の大きさを測っています.

心臓は完全に一定のリズムでは打っていません.息を吸うと少し速くなり,吐くと少し遅くなる.この微妙な「ゆらぎ」は,ブレーキ(副交感神経)が正常に効いている証拠です.

RMSSDが高い = ブレーキがよく効いている = 体が回復モードにある RMSSDが低い = ブレーキが弱っている = 体がまだストレス状態にある

寝ている間のRMSSDを測ると,体が本当に回復しているかどうかが数字でわかります.


60回の山行データが示したパターン

Oura Ringで記録した夜間のRMSSDデータを,60回以上の山行と重ね合わせて分析した結果,明確なパターンが浮かび上がりました.

発見①:前夜のRMSSDが低いと,翌日の山行で心拍が上がりやすい

前夜RMSSD 翌日の平均HR Zone 4比率 結果
高い(> 30ms) 低い傾向 < 10% 持続性が高い
低い(< 20ms) 高い傾向 > 15% 崩壊リスク

これは直感的にも理解できます.ブレーキがよく効いている状態(RMSSD高い)で出発すれば,心拍の上昇を抑えやすい→Zone 4に入りにくい→グリコーゲンが温存される→崩壊しにくい.

ブレーキが弱い状態(RMSSD低い)で出発すると,心拍が上がりやすい→Zone 4に入りやすい→崩壊しやすい.

発見②:RMSSDが低い原因の多くは「生活リズムの乱れ」

前夜のRMSSDを下げる要因を調べると,意外なことに「山行の疲労」よりも「生活リズムの乱れ」の影響が大きいことがわかりました.

補足:なぜ「夜更かし」が翌日の山行を壊すのか?

体内時計(サーカディアンリズム)は,副交感神経の活動を「夜に高く,昼に低く」するリズムを刻んでいます.

いつもより2時間遅く寝ると,このリズムがずれます.副交感神経の「高活性ウィンドウ」が短くなり,深い睡眠中のRMSSDが十分に上がりきらない.結果として翌朝のReadinessが下がり,山行中のブレーキが弱くなります.

これはジェットラグ(時差ボケ)のミニ版です.たった2時間のずれでも,自律神経には影響が出る.山行前夜の就寝時刻は,いつもと同じ時間を死守するのが最善策です.


Round 12(奥多摩三山)での検証 — 経路Aの防止テスト

この仮説を意図的にテストしたのが,Round 12(奥多摩三山縦走,2026年5月17日)です.

設計: 前泊で睡眠を十分に確保し,RMSSDが高い状態で長時間山行に挑む.Zone 4を高めに許容し,心拍の崩壊(経路A)が睡眠によって防げるかを検証.

⚠️ 検証スコープの明確化

第9章で,崩壊には2つの経路があることを発見しました.

  • 経路A(心肺崩壊): Zone 4過多 → グリコーゲン枯渇 → HR↓+速度↓(R6/R7型)
  • 経路B(脚崩壊): 累積下り過多 → エキセントリック損傷 → HR↑+速度↓(R9型)

R12で検証するのは経路Aの防止(睡眠→ブレーキ確保→心拍ドリフト抑制)のみです. 経路Bの対策(ストック・テーピング・小幅歩行)はR12では導入していないため,脚の保護については検証対象外です.第Ⅱ部の宿題として,今後のRoundで検証を続けます.

指標 R7(外秩父)❌ R12(奥多摩)✅
デバイス Oura Ring Amazfit Active 3
前泊睡眠 短い 6時間55分
Readiness 64 73
Zone 4 20.0% 35.7%
ドリフト率(CDI) +30.9% +1.3%
崩壊(経路A) 6.5hで崩壊 なし(11.7h完走)

Zone 4が35.7%——R7の20.0%の約1.8倍です.これだけの高強度負荷をかけたのに,ドリフト率はわずか+1.3%.R7の+30.9%とは雲泥の差です.

11.7時間を完走し,R6/R7で起きた経路A(心肺崩壊)のパターンは発生しませんでした

変化の要因として最も大きいのは,前泊の睡眠(6時間55分)とReadiness 73. ただし,以下の留意点から「睡眠だけが原因」と断言はできず,変化が生じたという事実の記録にとどめます.

補足:正直な留意点

  1. デバイスが異なる — R7はOura Ring(指PPG),R12はAmazfit(手首PPG).心拍の絶対値やZone判定の閾値が異なる可能性があり,Zone 4比率の直接比較には注意が必要です.ドリフト率(+1.3%)はAmazfit内の前半vs後半の相対比較であり,デバイス差の影響を受けにくい指標です.

  2. ルートが異なる — 外秩父七峰(37km)と奥多摩三山(20.5km)では距離・標高差・地形が異なります.

  3. 累積トレーニング効果 — R7からR12までの間に5回のRoundを経ており,心肺フィットネスが向上している影響を排除できません.

  4. 経路Bは未検証 — R12では第9章で提示した脚の保護策(ストック・テーピング・小幅歩行)を導入していません.R12で脚の崩壊が起きなかったのは,累積下り2,568mのうち急勾配区間の構成がR9(箱根)と異なることも一因と考えられ,経路Bの対策効果とは切り離して考える必要があります.


「疲労」の新しい定義

これまでの分析から,私はこの本での「疲労」を次のように再定義します.

疲労 = 自律神経のブレーキ(副交感神経)が弱まった状態

筋肉痛は「局所の損傷」であり,数日で回復します.しかし自律神経の疲労は全身のシステムに影響し,心拍制御・体温調節・消化・睡眠の質——すべてに波及します.

そしてこの自律神経の疲労は,山行そのものよりも,山行前の生活リズムに大きく左右される.

疲労の原因 影響の大きさ 対策
前夜の睡眠不足 前泊で6時間以上確保
就寝時刻のずれ いつもと同じ時間に寝る
アルコール 中〜大 山行前日は控える
前回の山行からの間隔 最低3日空ける(→第11章)
筋肉痛(DOMS) 2-3日で自然回復

「疲れているから山に行かない」のではなく,「疲れないように生活を整えてから山に行く」——これが60回のデータから導き出された,私なりの答えです.


まとめ——ウェアラブルが暴く「自覚なき疲労」

この章の核心は,「自分では気づかない疲労が,山行の成否を決めている」ということです.

朝起きたとき「まあまあ元気だな」と感じても,RMSSDが20ms以下なら自律神経はまだ回復していない.その状態でロング縦走に出れば,心拍は上がりやすく,Zone 4に入りやすく,崩壊リスクが高まる.

逆に,前夜しっかり眠って RMSSD が30ms以上あれば,Zone 4 = 35.7%の高負荷でも11.7時間持続できる可能性がある.

体感は嘘をつく.数字は嘘をつかない.

次の章では,山行後の回復にどれくらいの時間がかかるのか——「3日間ルール」と,日々のトレーニングで心肺効率を維持する「Zone 2ウォーキング」の科学を解説します.


<本章の参考文献>

  1. Buchheit, M. (2014). Monitoring training status with HR measures. International Journal of Sports Physiology and Performance, 9(3), 469–477.
  2. Plews, D. J., et al. (2013). Training adaptation and heart rate variability in elite endurance athletes. International Journal of Sports Physiology and Performance, 8(6), 688–694.
  3. Hynynen, E., et al. (2006). Heart rate variability during night sleep and after awakening in overtrained athletes. Medicine & Science in Sports & Exercise, 38(2), 313–317.
  4. Meeusen, R., et al. (2013). Prevention, diagnosis, and treatment of the overtraining syndrome. Medicine & Science in Sports & Exercise, 45(1), 186–205.

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