脈拍と標高

第2章:直登 vs 稜線歩き — 塔ノ岳が教えた「同じ負荷でも効き方が違う」


同じ「スコア」なのに,体験がまったく違う

前章で紹介したRound 1(箱根・明神ヶ岳)とRound 2(丹沢・塔ノ岳).この2つの山行は,数字だけ見ると驚くほど似ています.

指標 R1 明神ヶ岳 R2 塔ノ岳
TRIMP(心肺総負荷) 1,334 1,301
Minetti式エネルギー 93.2 kJ/kg 89.3 kJ/kg
消費カロリー(65kg) 1,447 kcal 1,387 kcal
TRIMP比 0.98(ほぼ同じ!)

心肺にかかった総コスト(TRIMP)も,代謝エネルギー(Minetti式)も,消費カロリーもほぼ同じ.

なのに,体感はまるで違いました

明神ヶ岳は「じわじわ効いてくる」感じ.箱根外輪山の縁を歩く長い稜線で,きついけど会話はできる. 塔ノ岳は「ガツンと来る」感じ.大倉尾根の階段をひたすら登り続け,口で息をしないと追いつかない.

この違いは,心拍ゾーンの分布を見ると一目瞭然です.

補足:TRIMPとは?

TRIMP(Training Impulse)は,「心拍数×運動時間」から心肺にかかった総負荷を一つの数字にまとめた指標です.

たとえば,心拍150で30分走るのと,心拍120で50分歩くのでは,TRIMPはほぼ同じになることがあります.つまりTRIMPは「どれだけキツかったか」の合計値であり,「どういうキツさだったか」は教えてくれません.

ここが今回のポイントです.同じTRIMP≒1,300でも,「詰め方」が違えば体への効き方はまったく変わります.


Zone 5が4割——塔ノ岳の「解糖系フル稼働」

心拍ゾーンの分布を比較してみましょう.

塔ノ岳(一直線の急登):

pie title 塔ノ岳 — 心拍ゾーン分布(全体の4割がZone 5)
    "Zone 1(低強度)" : 4.7
    "Zone 2(有酸素)" : 13.0
    "Zone 3(テンポ)" : 13.1
    "Zone 4(閾値)" : 27.6
    "Zone 5(最大)" : 41.6

明神ヶ岳(外輪山の縁歩き):

pie title 明神ヶ岳 — 心拍ゾーン分布(Zone 3に最も多く分布)
    "Zone 1(低強度)" : 1.1
    "Zone 2(有酸素)" : 7.6
    "Zone 3(テンポ)" : 34.5
    "Zone 4(閾値)" : 28.9
    "Zone 5(最大)" : 27.9

塔ノ岳ではZone 5が41.6%と,明神ヶ岳の27.9%の約1.5倍.明神ヶ岳はZone 3(テンポ域)に34.5%と最も多く分布しています.

補足:心拍ゾーンと燃料の関係

心拍ゾーンは,使われる「燃料」と密接に関係しています.

  • Zone 2-3(有酸素〜テンポ域): 主な燃料は脂肪.体内に数万kcal分の貯蔵があり,事実上無尽蔵.乳酸もほとんど出ない.長時間持続可能.

  • Zone 4-5(閾値〜最大域): 主な燃料は糖質(グリコーゲン).体内に約2,000kcal分(500g)しかない.副産物として乳酸が蓄積し,足が重くなる.

つまり,塔ノ岳は「有限の糖質を4割以上の時間で燃やし続けた」のに対し,明神ヶ岳は「ほぼ無尽蔵の脂肪をじわじわ燃やした」わけです.

同じTRIMP≒1,300でも,塔ノ岳は「ハイオクを一気飲み」,明神ヶ岳は「軽油でゆっくり巡航」.体への効き方が質的に異なるのは当然です.

言い方を変えると,同じスコアの運動でも,山を選ぶ目的によって使い分けができるということです.


温泉は回復を「速く」するが,「深く」はしない

Round 2のもう一つの実験テーマは「温泉の効果」でした.

Round 1では仙石原の強酸性硫黄泉にしっかり浸かりました.Round 2では,意図的に温泉を控え,湯船にちょろっと浸かる程度にしました.

結果を睡眠中の心拍推移で比較してみましょう.

Round 1 — 温泉あり(2/28夜):

xychart-beta
    title "R1 温泉あり — 睡眠中心拍"
    x-axis ["入眠", "10%", "20%", "30%", "40%", "50%", "60%", "70%", "80%", "起床"]
    y-axis "HR (bpm)" 60 --> 90
    line [84, 77, 69, 73, 72, 71, 72, 71, 69, 71]

底打ち69bpm:睡眠の23%で早々に到達

Round 2 — 温泉なし(3/7夜):

xychart-beta
    title "R2 温泉なし — 睡眠中心拍"
    x-axis ["入眠", "10%", "20%", "30%", "40%", "50%", "60%", "70%", "80%", "起床"]
    y-axis "HR (bpm)" 60 --> 80
    line [75, 73, 74, 69, 68, 67, 66, 69, 70, 68]

底打ち66bpm:睡眠の70%まで遅延するが,深さはR1より3bpm深い

面白い違いが見えます.

底打ちの「速さ」が違う. 温泉ありでは入眠後わずか23%の位置で底打ち.温泉なしでは70%の位置まで遅延.

しかし,底打ちの「深さ」はむしろ温泉なしの方が深い. 温泉あり:69bpm,温泉なし:66bpm.

補足:温泉が自律神経にやっていること

温泉(特に高温の湯)に浸かると,以下の連鎖反応が起きます.

  1. 末梢血管が拡張する(お湯の熱で皮膚の血管が開く)
  2. 血圧がやや下がる
  3. 圧受容体(血管の壁にあるセンサー)がそれを感知する
  4. 副交感神経(迷走神経)が急速に活性化する ← これ!
  5. 心拍数がストンと下がる

つまり温泉は,副交感神経のスイッチを「前倒し」で入れるアクセラレーターなのです.

ただし,時間をかければ温泉なしでも同等以上の深さまで到達する.温泉は「回復の速度」を変えるが,「回復のゴール」は変えない——これが2回の比較から見えた結論です.

これは登山者にとって実用的な知見です.


下りが28%増えても,炎症は増えなかった

もう一つ,Round 2で面白いデータが出ています.

指標 R1(明神ヶ岳) R2(塔ノ岳)
下り累積標高差 1,107 m 1,414 m
+307 m(+28%)
体温偏差 +0.38°C +0.38°C
同じ!

下りが28%増えたのに,体温偏差はまったく同じ+0.38°C.

補足:筋損傷の「天井効果」

下りの量が増えれば,エキセントリック収縮による筋損傷も比例して増えるはず——と思いきや,実際には「ある程度のレベルで飽和する」可能性をこのデータは示唆しています.

これを「天井効果」と呼びます.体には「これ以上壊さない」というリミッターのようなものが存在するのかもしれません.

運動生理学では,この「脳が体を守るために出力を制限する」仮説をセントラルガバナー理論と呼びます1.エンジン(筋肉)がオーバーヒートする前に,コンピュータ(脳)が自動的にスロットルを絞る——現代の車にもある安全装置と同じ考え方です.

この天井効果は,Round 3(雲取山)で予想を完全に裏切る結果を生みました.下りが83%増えても体温偏差は+0.04°C——第1章で紹介したRBE(反復防御効果)の成立です.


代謝コストの「盲点」——Minetti式が捉えられないもの

ここで,一つの重要な「盲点」に触れておきます.

Minetti式(代謝コストの計算式)で下りのエネルギーを計算すると,塔ノ岳の下りは293kcal,明神ヶ岳の下りは276kcal.たった17kcal(おにぎり1/10個分)の差しかありません.

でも,下りの累積標高差は塔ノ岳が1,414m,明神ヶ岳が1,107mで,307mも多い.

補足:Minetti式の限界

Minetti式は「ある勾配を歩くのに,体重1kgあたりどれだけのエネルギーを使うか」を計算する式です2.登りの代謝コストは約10 J/kg/mと高く,下りは約2.5 J/kg/mと低い.

下りの代謝コストが低いのは,筋肉が「引き伸ばされながら力を出す」エキセントリック収縮がエネルギー的には「安い」からです.

しかし,ここに落とし穴があります.エキセントリック収縮は代謝的には安くても,筋線維への機械的ダメージは大きい.つまり,Minetti式の数字が小さいほど安全とは限らないのです.

ガソリンの消費は少ないけれど,サスペンションはガタガタになっている——そんな状態がまさに「下り」で起きていることです.

この「代謝コストと機械的ダメージの乖離」は,後の第9章(箱根外輪山で膝が壊れた話)でクライマックスを迎えます.心肺が完璧でも脚は壊れる——その伏線が,ここRound 2で既に見えていたのです.


Round 2が教えてくれた3つのこと

この章の発見をまとめます.

1. 同じTRIMP・同じカロリーでも「詰め方」で体への効き方が変わる

直登(塔ノ岳)はZone 5が41.6%の「解糖系フル稼働」型.稜線歩き(明神ヶ岳)はZone 3が34.5%の「脂質燃焼帯じわじわ」型.目的に応じてルートを選ぶことで,トレーニング効果を使い分けられる.

2. 温泉は回復の「アクセラレーター」

温泉ありでは睡眠の23%で心拍が底打ち,温泉なしでは70%.しかし底打ちの深さは温泉なしの方がむしろ深い(66 vs 69 bpm).温泉は副交感神経の起動を前倒しするが,回復のゴールは変えない.

3. 筋損傷には天井効果がある(かもしれない)

下りの累積標高差が+28%増えても体温偏差は同じ+0.38°C.体には「これ以上壊さない」リミッターが存在する可能性がある.


次の章では,これらの発見を引き継いで,Round 3(雲取山)でEFが+26%に到達し,RBEが成立し,自律神経の「超回復」が確認された過程を詳しく追います.2週間で人体に何が起きていたのか——エンジン進化の全貌が明らかになります.


<本章の参考文献>

  1. Banister, E. W. (1991). Modeling elite athletic performance. In: Physiological Testing of Elite Athletes. Human Kinetics, 403–424.
  2. Minetti, A. E., et al. (2002). Energy cost of walking and running at extreme uphill and downhill slopes. Journal of Applied Physiology, 93(3), 1039–1046.
  3. Noakes, T. D. (2012). Fatigue is a brain-derived emotion that regulates the exercise behavior. Frontiers in Physiology, 3, 82.
  4. Stanley, J., Peake, J. M., & Buchheit, M. (2013). Cardiac parasympathetic reactivation following exercise. Sports Medicine, 43(12), 1259–1277.
  5. Karvonen, M. J., Kentala, E., & Mustala, O. (1957). The effects of training on heart rate. Annales Medicinae Experimentalis et Biologiae Fenniae, 35(3), 307–315.

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  1. Noakes, T. D. (2012). Fatigue is a brain-derived emotion that regulates the exercise behavior. Frontiers in Physiology, 3, 82. 

  2. Minetti, A. E., et al. (2002). Energy cost of walking and running at extreme uphill and downhill slopes. Journal of Applied Physiology, 93(3), 1039–1046. 

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