第4章:心拍ドリフトを気にしていた自分へ——疲労下の「sLT低下率」こそ真のキラー指標
第4章:心拍ドリフトを気にしていた自分へ——疲労下の「sLT低下率」こそ真のキラー指標
シリーズ: Durability:マラソン後半の失速を科学する 種別: 本編第4回
鉄雄の「間違った計器」
丹沢主稜の5時間目,蛭ヶ岳への最後の登りでした.
鉄雄がGarminに目を落とすと,心拍数が160を指していました.「やばい,160だ.ペース落とす」——鉄雄はそう言って,歩幅を半分に縮めました.
隣を歩く金田も同じ心拍帯にいました.しかし金田はGarminをちらりと見ただけで,ペースを変えませんでした.
「心拍上がってるのに,なんで落とさないの?」と鉄雄が聞きます.
金田の答えはシンプルでした.「心拍じゃなくて,EFを見てる.1拍あたりの登高量がまだ落ちてないから,脚は大丈夫」
結果はどうなったか.鉄雄は心拍を抑えようとペースを落とし続け,蛭ヶ岳から西丹沢への下りでさらに遅延.金田はペースを維持し,むしろ後半にタイムを上げるネガティブスプリットで下山しました.ゴールの差は30分.
🤔 2人のVO₂max,年齢,体重はほぼ同じです.違ったのはたった1つ——どの計器を読んでいたか.鉄雄が信じていた「心拍160」というシグナルは,本当にペースを落とすべきサインだったのでしょうか?
この章では,鉄雄の判断がなぜ間違っていたのかを,2024年ロンドンマラソンの実走データで証明します.
私はGarminを読み間違えていた
山行中,私はいつも心拍数を気にしていました.
後半になると,ペースは変わっていないのに心拍だけがじりじりと上がっていきます.大倉尾根の最後の階段で150を超え,花立山荘の手前で160に近づくのを見るたびに,「ペースを落とさないとまずい」と判断していました.
心拍が上がる=体が限界に近づいている.心拍を抑えれば後半は崩れない——ほとんどのランナーや登山者が,直感的にそう信じています.私もそうでした.
この「心拍ドリフト(デカップリング)」を指標にしてペーシングを組み立てること自体,合理的だと思っていたのです.
しかし2024年ロンドンマラソン18名の実走データが,その信念を容赦なく否定しました.デカップリングとゴールタイムの相関係数はr = -0.058——統計的に「完全に無相関」です [7].
心拍ドリフトが大きかった選手ほど遅かったわけではありません.小さかった選手が速かったわけでもありません.文字通り,何の関係もなかったのです.
🤔 つまり心拍ドリフトを見てペースを落としても,ゴールタイムの予測には役立ちません.ただし,心拍ドリフトが脱水や体温上昇のシグナルとして無意味なわけではありません(後述).大倉尾根で心拍160を見て歩幅を半分にしていた自分は,「脚がもつかどうか」を間違った計器で判断していたのです.
この数字を見たとき,正直なところ,頭が真っ白になりました.私がずっと気にしていた心拍ドリフトは,ゴールタイムの予測とは何の関係もなかったのです.
Hunterのプロトコル——ラボからロンドンの路上へ
Hunterら(2025)の研究デザインは二段構えです [7].
まずラボで:18名のランナー(男11名/女7名,平均マラソン3:17±0:32,平均年齢41±12歳)に,sLTペースで90分間トレッドミルを走らせました.走行直後,全指標を再測定しました.次に実戦で:同じ被験者が2024年ロンドンマラソンに出走し,GPS+心拍データをリアルタイム収集しました.
ラボと実戦を同じ被験者で繋いだ——これがこの研究の真骨頂です.
90分走後のラボ結果はこうなりました:
| 指標 | PRE(フレッシュ) | POST(90分走後) | 変化 |
|---|---|---|---|
| V̇O₂peak | 56.7 mL/kg/min | 53.4 | -5.8%, p<0.001 |
| sLT | 12.8 km/h | 12.1 km/h | -5.5%, p<0.001 |
| RE(燃費) | — | 変化なし | p>0.05 |
| FULT | — | 変化なし | p>0.05 |
V̇O₂peakとsLTは有意に低下しました.しかしRE(ランニングエコノミー)は動きませんでした.前回(第3回)のZaniniの2:46走者たちがREを+4.2%悪化させたのと対照的です.これは「天井との距離」——ヘッドルームの差だと第3回で解説した通りです.
🤔 ヘッドルームの考え方は登山にもそのまま当てはまります.縦走2日目の朝,まだ余裕があると感じて最初の稜線をハイペースで飛ばす人と,淡々と歩き続ける人.天井に近いところで走り続けた人ほど,午後の急登で一気に崩壊します.
しかしこの研究の真価は,ラボデータではありません.ラボの数値をロンドンマラソンのリアルレースデータと突き合わせた相関分析にあります.
r = -0.058の衝撃——心拍は「ゴールタイム予測」に使えなかった
ロンドンマラソンのゴールタイムと,ラボで測定した各指標の変化を相関させた結果が以下です [7]:
| 相関ペア | r値 | 意味 |
|---|---|---|
| デカップリング × ゴールタイム | r = -0.058 | 完全に無相関 |
| % Δ sLT × ゴールタイム | r = 0.680 (p<0.01) | ✅ 高い相関 |
この2つの数字の落差を見たとき,しばし呆然としました.
r = -0.058です.相関係数は-1から+1までの範囲で,0は「完全に無関係」を意味します.-0.058はほぼゼロ.つまり心拍ドリフトとゴールタイムの間には,文字通り何の関連もなかったのです.
一方,sLT低下率とゴールタイムの相関はr = 0.680(p<0.01).これは「sLTが大きく低下した人ほど,ゴールタイムが遅かった」ことを意味します.統計的にも非常に明確な関係です.
🤔 縦走のエイドの後半で「心拍が高いからペースを落とそう」と判断したこと,ありませんか? その判断は水分補給や暑熱対策のトリガーとしては正しいのですが,脚が持つかどうかの判断材料にはなっていなかったのです.
心拍ドリフトがゴールタイムと無相関だとしたら,なぜ多くのランナーは心拍上昇を失速の原因だと感じるのでしょうか?
答えは単純です.心拍ドリフトは失速の原因ではなく,脱水や体温上昇の結果に過ぎません.ゴールタイムの予測には使えませんが,水分・体温の管理指標としては意味を持ちます.
対してsLT(閾値速度)の低下率は,筋肉の疲労そのものを反映しています.遅筋線維が消耗し,効率の悪い速筋線維にスイッチせざるを得なくなります——その結果,乳酸が溜まり始める速度が沈みます.レース後半に「脚が持たなくなる」現象の直接的な指標です.
🤔 下山後の駅までのロードで「もう脚が動かない」と感じたことがあるなら,それが「sLT低下」の体感そのものです.心拍は下がっているのに脚が重い——あの感覚は心臓の問題ではなく,筋肉の天井が沈んでいるのです.
「第4の次元」——個人差という巨大な暗黒大陸
ここで,Jonesの「第4の次元」論文 [3] がこの話に深みを加えます.
Jonesは,2時間のヘビー強度運動後にCP(Critical Power:臨界出力)が平均約10%低下することを報告しました [3].しかしそれ以上に衝撃的なのは個人差の幅です:
<1% 〜 約32%
同じトレーニングを積み,同じV̇O₂maxを持つ選手たちの間で,CPの低下幅が最小<1%から最大約32%まで,約32ポイントもの差があります.ある選手は2時間走っても出力がほとんど落ちません.別の選手は3分の1近くを失います.
🤔 山で言い換えると,同じCT(コースタイム)で丹沢を歩ける2人が,8時間の縦走の後半で見せるパフォーマンス低下には,これほど大きな個人差がある,ということです.「あいつと同じくらい歩けるはずなのに,なぜ自分だけ後半バテるのか」——その答えは,V̇O₂maxでは説明できません.
この差を,V̇O₂max・LT・REという従来の3指標では説明できません.Joynerモデルはフレッシュなレコード盤のA面だけを見て,疲労したB面を無視していたのです.
Jonesはこの個人差を説明するために,Durability——長時間運動中の生理学的特性の変化速度 [3] ——を第4の次元(The Fourth Dimension)と呼びました.V̇O₂max・LT・REという従来の3指標(静的な能力)に対し,時間軸に沿って能力がどれだけ速く変化するか——これがDurabilityの本質です.
そしてHunterのデータは,この第4の次元を最もよく捉える実測指標が% Δ sLTであることを示しました.
では,何を見ればいいのか?
ここまでの話を整理します.
flowchart TD
FATIGUE["長時間運動による疲労"] --> PATH_A["経路A:循環器系"]
FATIGUE --> PATH_B["経路B:筋骨格系"]
PATH_A --> SV["SV低下(脱水・体温上昇)"]
SV --> DRIFT["心拍ドリフト ↑"]
DRIFT --> PRED_NO["ゴールタイム予測:r = -0.058\n❌ 使えない"]
PATH_B --> MUSCLE["遅筋消耗 → 速筋スイッチ"]
MUSCLE --> SLT["sLT低下"]
SLT --> PRED_YES["ゴールタイム予測:r = 0.680\n✅ 使える"]
style DRIFT fill:#e74c3c,color:#fff
style SLT fill:#2ecc71,color:#fff
style PRED_NO fill:#95a5a6,color:#fff
style PRED_YES fill:#27ae60,color:#fff
心拍ドリフトは脱水・体温上昇の指標としては有用です(水分補給や暑熱対策の判断に使えます).しかし「レース後半で失速するかどうか」を予測する能力は持っていません [7].
失速を予測するのは,疲労下でのsLT低下率——つまり「どれだけ筋肉の天井を維持できたか」です.
🤔 山行に置き換えると,Garminの心拍グラフが右肩上がりでも,EF(Efficiency Factor:心拍1拍あたりの登高量)が維持されていれば,あなたの体はまだ崩壊していません.逆にEFが後半で急落しているなら,心拍が安定していても脚はもう限界です.見るべき数字を間違えないこと——それがこの章の最大の教訓です.
正直,これを知ったとき,自分の山行データの見方がガラッと変わりました.それまでは心拍グラフの右肩上がりを見て一喜一憂していましたが,本当に見るべきだったのは「後半で歩行ペースが同じ心拍でどれだけ維持できたか」——つまりEF(Efficiency Factor)の後半維持率だったのです.ランナーのsLTに相当するものを,ウェアラブルの数字から読み取ることはできないか.それが私の次の問いになりました.
壊れることは分かった——では,どう守るのか?
第3回と第4回で,Durabilityの「崩壊メカニズム」を2つの角度から解剖してきました:
- 非線形崩壊:90分を境にV̇O₂peakが崖から落ちます(ドメイン・スリップ)
- 真の予測指標:心拍ドリフトではなく,sLT低下率がゴールタイムを決めます
壊れ方は分かりました.では,壊れないようにする方法はあるのでしょうか?
次回,最終回.Zaniniらが28名のランナーで実施したランダム化比較試験(RCT)が,「10週間の筋トレでDurabilityを逆転させた」という衝撃的な結果を叩き出します.力学的ディフェンスと代謝的ディフェンス——2つの盾の科学に踏み込みます.
金田と鉄雄——心拍160の「その後」
この章を読んで,冒頭の丹沢主稜のシーンに戻りましょう.
鉄雄は心拍160を見てペースを落としました.金田は無視してペースを維持しました.r = -0.058——Hunterのデータは,金田の判断を明確に支持しています.
鉄雄が読んでいたのは「経路A:循環器系」の計器でした.心拍160は脱水と体温上昇の結果であり,脚の筋肉がどれだけ残っているかとは無関係だったのです.
一方金田は,意識的かどうかは別として,「経路B:筋骨格系」の情報を読んでいました.EF(1拍あたりの登高量)が維持されている限り,筋肉の天井——sLTに相当するもの——はまだ沈んでいない.だからペースを変える理由がなかった.
2024年ロンドンマラソン18名の実走データ:デカップリング × ゴールタイム r = -0.058(完全に無相関),% Δ sLT × ゴールタイム r = 0.680(高相関)——Hunter & Muniz-Pumares, 2025 [7]
鉄雄の失敗は体力の問題ではありません.情報の読み方の問題でした.
🤔 もしあなたが山でGarminの心拍を見てペースを落としたことがあるなら,問い直してみてください.そのとき,脚は本当に限界でしたか? それとも,間違った計器を読んでいただけではありませんか?
📊 GPXデータの自動解析ツール CAIRN / 🔬 山岳スポーツ科学データベース Durability Monitor
本記事の分析手法は CAIRN で自動計算できます