Durabilityの科学

第3章:2時間走の恐怖——「非線形崩壊」という名の見えない崖

第3回:外秩父七峰で足が止まった日——「非線形崩壊」という名の見えない崖

シリーズ: Durability:マラソン後半の失速を科学する 種別: 本編第3回


鉄雄の体内で,5時間後に何が起きていたか

丹沢主稜の後半——蛭ヶ岳への登り返しで,鉄雄の足は鉛のように重くなっていました.

鉄雄のGarminデータを振り返ると,異変の始まりは明確でした.行動開始から5時間を過ぎたあたりで,心拍数が急に5bpm跳ね上がり,それと同時にペースが15%落ちている.それまでの4時間は,心拍もペースもほぼ一定だったのに.

金田は後日,このデータを見ながら鉄雄に説明しました.

「鉄雄,ここを見てほしい.5時間目までの劣化は直線的——じわじわ燃費が悪くなるパターンだ.でも5時間を過ぎた瞬間,崩壊が加速している.これは『非線形崩壊』——直線では説明できない,崖のような急降下なんだ」

鉄雄は首を傾げました.「ペースを上げた覚えはないんだけど」

「そう,ペースは上げていない.でも体の中で『天井』が勝手に下がってきたんだよ.科学ではこれを『ドメイン・スリップ』と呼ぶ」

🤔 ペースを変えていないのに,突然きつくなる——それは「自分が変わった」のではなく,「体の中の基準線が変わった」のです.2025年,Zaniniらがこの現象を定量的に示しました.


5時間後,突然「壁」が来た

外秩父七峰縦走(R7)を歩いたときのことです.

序盤から調子は良く,笠山,堂平山と快調に越えていきました.心拍も安定していて,「今日は最後まで行ける」と確信していました.しかし5時間を過ぎたあたり——大霧山の手前で,突然,脚が動かなくなりました.

ペースを上げた覚えはありません.時計を見ても,それまでと同じペースで歩いています.それなのに,脚だけが鉛のように重くなる.休憩を取っても回復しない.まるで体の中の何かが,知らないうちに壊れていたかのような感覚です.

🤔 山頂直下の急登で「あと100m」が永遠に感じる——あの瞬間を思い出してください.序盤なら「あと100m,5分で着く」と思えた距離が,後半では「100mが終わらない,足が上がらない」に変わる.ペースも傾斜も変わっていないのに,体感だけが異次元にきつくなる.

当時の私には,この現象を説明する言葉がありませんでした.

2025年,Zaniniらがこの現象を定量的に解明しました [6].彼らが示したドメイン・スリップ——運動強度ドメインが,自分の知らないうちに勝手にシフトする現象——が,あの日の私の体の中で起きていたことを説明してくれたのです.


14人のエリート市民ランナーが見せた「崖」

ZaniniらはLoughborough大学のラボに,平均マラソンタイム2:46:58のエリート市民ランナー14名を集めました [6].V̇O₂maxは63.1±5.8 mL/kg/min——サブ3を軽く切るレベルです.

彼らにヘビー・ドメインのペースでトレッドミルを2時間走らせ,0分・90分・120分の3時点で全指標を測定しました.

結果を見てください.

指標 90分後 120分後 崩壊パターン
V̇O₂peak(エンジンの最大出力) -3.1% -7.1% 非線形:90分を境に急降下
RE(燃費の悪化) +4.2% +5.8% 直線的に悪化し続ける
sLT(閾値速度) 14.0→13.5 km/h 14.0→13.0 km/h 地盤沈下

このデータを見たとき,思わず「これだ」と声が出ました.あの日の外秩父七峰で起きたことが,数字で説明されていたのです.

90分までの変化は穏やかです.V̇O₂peakは-3.1%,REは+4.2%.しかし90分を過ぎた瞬間,V̇O₂peakが崖から落ちるように-7.1%まで急降下します.REの直線的な悪化(+4.2%→+5.8%)とは明らかに異なるパターンです.

車にたとえてみます.燃費は1時間あたり一定のペースで悪化していきます(REの直線的悪化).しかしエンジンの最大出力は,90分までは何とか持ちこたえた後,突然ガクンと落ちます(V̇O₂peakの非線形崩壊).アクセルを同じだけ踏んでいるのに,エンジンが応答しなくなる——これがドメイン・スリップの正体です.

🤔 登山で体感的に言えば,こういうことです.同じ登りなのに5時間後は心拍が10bpm高い——これがREの直線的悪化(燃費の劣化).さらに恐ろしいのは,VO₂peakの崩壊です.序盤なら「あと少し頑張れば心拍150bpmで急登をクリアできた」のに,5時間後は「心拍150bpmまで上げても,足が前に出ない」——出力の天井そのものが下がっているのです.

なお,上記の「90分→登山の5時間」という換算は筆者の推定です.Zaniniらの実験はランナーを対象としており,登山の行動ペースではドメイン・スリップの発現タイミングが異なる可能性があります.ここでは「長時間行動の後半で非線形の崩壊が起きる」という構造的な共通点に注目しています.


ドメイン・スリップ——見えない「地盤沈下」

sLT(乳酸性閾値速度)の変化が,この現象の本質を暴きます.

走り始めた時点で,sLTは14.0 km/hでした.レースペースはヘビー・ドメイン内(sLTの少し下)に設定されています.しかし120分後,sLTは13.0 km/hまで沈みます.

ペースは変えていません.しかし「ヘビー・ドメインの天井」であるsLTが下がったことで,同じペースが自動的にシビア・ドメイン(重篤域)に突入してしまうのです.

flowchart LR
    subgraph 開始時["開始時点"]
        A1["レースペース 13.2 km/h"] --- A2["sLT = 14.0 km/h\n(天井)"]
        A3["▶ ヘビー域\n(持続可能)"]
    end

    subgraph 120分後["120分後"]
        B1["レースペース 13.2 km/h\n(変えていない!)"] --- B2["sLT = 13.0 km/h\n(天井が沈下)"]
        B3["▶ シビア域に突入\n(持続不能)"]
    end

    開始時 -->|"地盤沈下"| 120分後

    style A3 fill:#2ecc71,color:#fff
    style B3 fill:#e74c3c,color:#fff

これ,登山で経験したことがある方も多いのではないでしょうか.序盤と同じペースで歩いているのに,後半になると「急にきつくなる」.自分では何も変えていないのに,体感だけが跳ね上がる.

🤔 具体的にイメージしてみましょう.朝の出発時,心拍130bpmで快適に登っていたペース——あなたの「天井(閾値)」は心拍155bpmだったとします.余裕は25bpm.ところが5時間後,天井が145bpmまで沈下する.同じ130bpmのペースなのに,天井までの余裕がたった15bpmしかない.「同じことをしているはずなのに急にきつい」——それは気のせいではなく,天井が降りてきているのです.


シリーズ最大の矛盾——速い選手ほど壊れる

ここで,私が最も驚いた謎が登場します.

Hunterら(2025)は,2024年ロンドンマラソンに出走した18名(男11名/女7名,平均マラソン3:17±0:32)を対象に,sLTペースで90分走を行った後に全指標を再測定しました [7].

指標 PRE POST(90分後) p値
V̇O₂peak 56.7±7.2 53.4±6.3 <0.001
sLT 12.8±2.0 12.1±2.2 <0.001
RE(燃費) 変化なし >0.05

V̇O₂peakとsLTは低下しました——方向はZaniniと同じですが,低下幅は異なります(Hunter -5.8% vs Zanini -3.1%,いずれも90分後の値).しかしREが全く悪化していません

対照的に,Zaniniの2:46走者たちはREが+4.2%も悪化していました.同じ90分走なのに,なぜ結果が真逆なのでしょうか?

研究 被験者 平均マラソン 90分後のRE
Zanini [6] エリート市民 2:46 +4.2%悪化
Hunter [7] 市民ランナー 3:17 変化なし

答えは「天井との距離」にあります.

Zaniniの2:46走者たちは,ヘビー・ドメインの天井に近い強度で走っています.天井までの余裕がほとんどない状態で90分を走ると,筋疲労によるRE悪化がすぐにドメインの壁を突き破ります.つまり「スリップ」が起きます.

一方,Hunterの3:17走者たちは,天井までの余裕(ヘッドルーム)が大きいです.REが少し悪化しても,まだヘビー・ドメインの中に収まっています.ドメイン・スリップまで到達しないのです.

🤔 天井がゆっくり下がってくる部屋を想像してください.背の高い人(天井ギリギリで運動している人)は,すぐに頭がぶつかります.でも身を低くしている人(余裕を持って運動している人)は,同じだけ天井が下がっても,まだ頭の上に空間が残っています.

金田くんと鉄雄くんの心拍130は同じでも,金田くんは天井まで30bpmの余裕がある.鉄雄くんは5bpmしかない.5時間後に天井が10bpm分下がったとき,鉄雄くんだけが天井にぶつかるのです.

🤔 あなた自身の山行に当てはめてみてください.「いつもギリギリのペースで歩く速い人」ほど,後半に崩壊しやすいのです.逆に,「余裕を持ったペースで歩く人」は,多少燃費が悪くなっても天井に届かないから崩れない.CT(コースタイム)の0.7倍で攻める人と,1.0倍でのんびり歩く人——後半に「壁」が来やすいのは,実は前者なのです.

速い選手ほど天井に近い場所で走っている——だからこそ,速い選手ほど壊れやすいのです. これがDurabilityの本質的パラドックスです.


鉄雄の体内で起きていたこと——ドメイン・スリップの全容

丹沢主稜の山行データを改めて並べて,金田は鉄雄に「あの日の5時間目」を説明しました.

「鉄雄,あの日の序盤,お前の閾値心拍はだいたい155bpmだった.レースペースの心拍は130bpm.天井まで25bpmの余裕があった」

「5時間後,お前の閾値が145bpmまで沈下していた.REの悪化で実質心拍は135bpmまで上がっていた.天井までの余裕は10bpmしかなかった」

「蛭ヶ岳の登り返しで心拍が140bpmに上がった瞬間——お前は知らないうちにシビア域に突入していたんだ.自分では何も変えていないのに,体の中の天井が降りてきて,お前を潰した」

鉄雄は黙って聞いていました.そして言いました.

「……つまり,俺は自分の意思でペースを落としたんじゃない.体の中で,勝手にゲームのルールが変わっていたのか」

Zanini et al. (2025) が示した非線形崩壊のデータ——V̇O₂peak -7.1%,RE +5.8%,sLT 14.0→13.0 km/h——は,鉄雄の体験を説明する有力なモデルです [6].ただし,Zaniniらの実験はランニング(ヘビー・ドメインでの2時間走)を対象としており,登山の行動ペースや地形変動を含む条件とは異なります.ここでは「非線形の生理的崩壊が起きる」という構造を援用しています.

「じゃあ,俺はどうすればよかったんだ?」 と鉄雄は聞きました.

金田は答えました.「2つある.1つは,天井そのものを高くすること——Zone 2トレーニングと筋トレで,sLTの位置を上げる.もう1つは,天井からの距離を保つこと——序盤のペースを,5時間後の自分を基準に設定する」

「俺はどっちもやっている」 と金田は続けました.「平日のウォーキング(45分×週3回)で有酸素ベースを作って,自宅での自重筋トレ(20分×週2回)で筋持久力を維持する.山行ではZone 2中心で天井との距離を保つ.だから8時間後でもネガティブスプリットが刻めるんだ」

🤔 金田のペーシング戦略は,まさにDurabilityの科学と整合するアプローチでした.「出発時の元気な自分」ではなく「5時間後の疲労した自分」を基準にペースを設定する.天井が降りてくることを前提に,最初から天井との距離を確保しておく.鉄雄が「追い込まないと鍛えられない」と全力で歩いていたのとは,対照的なアプローチです.


「第4の次元」への入口

第1回で紹介したJoynerの3指標(V̇O₂max,LT,RE)は,「元気な状態でどれだけ速いか」を測る指標でした.しかしこの回で見たように,2時間後にはV̇O₂peakが7%沈み,REが5.8%悪化し,sLTは1 km/h沈みます.

フレッシュな状態のテスト結果は,レース後半のパフォーマンスを約束してくれません.これは登山計画でも同じで,出発時の体力テストがどれだけ良くても,5時間後の大霧山でどうなるかは分からない.

🤔 つまり,「コースタイムの90%で歩ける体力がある」という情報だけでは,8時間の縦走を計画するには不十分なのです.必要なのは,「8時間後でもコースタイムの90%を維持できるか」——時間軸を加えた「第4の次元」の情報です.

では,レース後半の失速を本当に予測する指標は何なのでしょうか?——多くのランナーは「心拍ドリフト(デカップリング)」だと信じています.心拍が上がれば失速する,と.

正直に言えば,私もそう思っていました.山行中にGarminの心拍グラフが右肩上がりになるのを見て,「ああ,ペースを落とさなきゃ」と判断していました.

次回,2024年ロンドンマラソンの実走データが,その信念を完全に打ち砕きます.


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